diffuse様



亀<ぼく>の頭を撫でてもらう、たったひとつの魔法の言葉
diffuse


姉さんが譲治様と旅行に行くらしい。
そんな行動なんて無駄だと思うけれど、姉さんが余りにも嬉しそうにしているものだから、僕は何も言わなかった。
ただ、世話をしてくれる人が居なくなるというのは事実な訳で。

「それじゃあよろしくお願いします、ロノウェ様!」
「ゆっくり羽を伸ばしておいでなさい」

僕の知らない謎の人に僕を預けた姉さんは、そのままの足で譲治様と旅行に向かってしまった。
そして残ったのは僕と、どう見たって胡散臭くて怪しい外人。
姉さんが呼んだ名前は、源次さんの苗字にも似ていたようにも思うのだけれど、いったいこの人は誰だろう。

「君とは会うのは初めてになりますね。私はロノウェ、高貴なる悪魔でありながら、今は卑しきニンゲンにして偉大な魔女であらせられるベアトリーチェ様にお仕えする家具頭です」

それを聞いた途端、僕はとてつもなく嫌な気持ちになって、すぽんと甲羅の中に潜ってしまった。
あの最低最悪な魔女の家具の、しかもおまけに悪魔だって?!
姉さんが何を思ってこんな奴に僕を預けたのかは分からないけれど、本気で勘弁してほしい。
確かに郷田は嫌いだし、源次さんが僕なんかの世話を見る筈がないっていうのも分かるけれど、魔女の家具なんて信用できる訳がない。
そんな調子で完全に不貞腐れた僕は、甲羅の中で身構えながら、ロノウェ様とかいう悪魔の言葉をじっと聞いていた。

「君が無口で気難しい性質であるのは、紗音から聞いております。噛みつく習性こそないとはいえ、一度拗ねるとなかなかに厄介とか。まぁ、私も手出しはほどほどに致しますので、あまり機嫌を損ねないでもらえると有難いですな」

まったく……姉さんときたら、僕をどんな風に紹介したんだか。
僕はカミツキガメなんかじゃないし、第一これじゃ、まるで厄介者みたいじゃないか。
会う前から最悪の印象を植えつけられていたようだけど、ロノウェ様とやらもこんな説明を受けて、よくも僕を預かろうなんて気になったものだ。

「手作りのクッキーを置いておきますから、好きな時に食べて下さい。なるべく早めに食べるのをお勧めしますよ」

言うだけ言うとロノウェ様の気配が、ぱっと消えた。
あの魔女もそうだったけれど、瞬間的に消える能力を持っているのだろう。
それでも念の為、そろりそろりと窺うように首を伸ばしてみると、やはり誰の姿も近くになくて、目の前には小皿に乗ったクッキーが用意されていた。
僕がいきなり口に含んでも大丈夫なくらいの大きさで、しかも人間サイズのを割ったような形跡もない。
手作りなんて言ってたけど、わざわざ僕に合わせて作ってくれたのだろうか。
悪魔の作った物なんて疑わしいにもほどがあるけれど、それでも漂ってくる香ばしい匂いやちょっとした気遣いのおかげもあって、一口ばかり食べてみて……気づいた時には、お皿の上はすっかり空になっていた。
こんなに美味しいクッキーを、生まれて初めて食べた気がした。

その後もロノウェ様は、甲羅を磨いてくれたり、タートルフードじゃないちゃんとした食事を用意してくれたりと、至れり尽くせりの世話をしてくれた。
なのに僕といえば、出会いがしらに隠れてしまった影響もあって、どうにもロノウェ様と顔を合わせづらい。
元々が無口で無愛想な僕だから、いまさらどんな顔をして接すればいいのかさえも分からないのが実情だ。
こんな時に姉さんがいたら迷わず相談できるのだけど、そもそもこうしてロノウェ様と過ごしているのだって、姉さんが旅行に行ったからで…僕はどうすればいいんだろう。

「たまにはお風呂に入りますか?」

ある日、ロノウェ様が声をかけてきた。
僕はいわゆるリクガメみたいなもので、水にずっと浸かっていなければならない種類とは違う。
それでも清潔を保つために水浴びは重要だったりするし、水よりはお湯の方が大歓迎だ。
でも姉さんは女性だから、一緒に入るという訳も行かず、そんな機会はなかなかもてなかった。
ほんのり嬉しくなりながらも、気恥ずかしくて首をこくこく縦に振るばかりだった僕は、ヒョイと抱えられてどこかへと連れられていく。
ついた先は浴場で、さっそく湯船に入れてもらった僕は、嬉しくなってスイスイ泳いだ。
だけど調子に乗っていた僕は、一度は退出したロノウェ様が再び浴槽へ戻ってきたのに気付くと、一気に顔を赤らめてしまった。
浮かれて泳ぐ姿を見られたのが恥ずかしかったのもあるけれど…その、なんと言えばいいのか。

「男同士、裸の付き合いと参りましょう」

にっこり笑うロノウェ様は、タオルを腰にかけただけの姿になっていた。
気にする方がおかしいっていうのは分かってるけど、でもやっぱり何となく気になってしまう。
しかも、ひょいと持ち上げられると、あろうことか太腿の上に乗せられてしまった。
一体全体なんだろう、この落ち着かなさは…!

「今日は徹底的に洗ってあげますよ」

嫌とも何とも返せずに首を引っ込めていると、ロノウェ様は細いブラシを手に取って、甲羅の溝をゴシゴシ洗ってくれた。
いつもの甲羅磨きだけでは取れない汚れも、しっかり落としてもらえているようで、恥ずかしさよりは感謝の気持ちが大きくなってくる。
ロノウェ様の手つきは丁寧で優しくて、とても安らげるようだった。
こんな気持ちは本当にはじめてで、戸惑いがちで、でも嬉しくて。
…この小さな幸せが、ずっと続いてくれればいいのに…。
とろとろ考えながら瞼を重くさせていたら、やっぱり途中から眠ってしまって、何時の間にやら意識がなかった。
そして気付いた時には、やわらかい毛布の上に置かれていた。
ロノウェ様の姿はどこにもなくて、お礼さえも言えなかった自分に、僕は心底がっかりしていた。

そんな事があった翌日、姉さんが帰ってきた。
沖縄で遊んできたからだろうか、目に分かるほど日焼けしている。
ずいぶんとご機嫌な姉さんは、久々に僕を見ると頭をグリグリ撫でてきた…大雑把なコミュニケーションはとても懐かしくて、でもロノウェ様と違ってけっこう乱暴だな、なんて思ってしまった。

「お帰りなさい紗音。随分と楽しんできたようで、何よりです」
「はい。とても楽しめました」

機嫌よさげに話すロノウェ様と、嬉しそうに笑う姉さん。
今日でロノウェ様とお別れなんだと思うと、無性に淋しさが募ってきて、僕は深くうな垂れた。
もっとちゃんと話せばよかったとか、有難うございますって伝えればよかったとか、そんな後悔ばかりがあふれ出て来て、なるほど後悔先に立たずとはよく言ったものだと思ってしまう。
そんな僕を後目に、空と海の青い色、幸せなひととき、恋人たちの時間などなど、ふたりは色んな話をしていた。
…どうして姉さんは、あんなにも楽しげに話せるんだろう。
たった一瞬の時間をハサミか何かで切り抜いて、心の中で、アルバムにでもしているのだろうか?
それに引き換えこの僕は、幸福な気持ちも青い色の素晴らしさも、なにひとつだって語れやない。
心の中で反芻しても、やがて薄れて消えていくだけ。
殻に閉じこもって他人の接触を拒んでる、孤独で淋しい、頑固な存在。
僕が亀のままなのは、たぶん、ひとりきりと思い込んでいるからだ。
ロノウェ様とも姉さんとも違う僕は、こうして脇でぽつんとしたまま。

「ところで紗音。ひとつ、無理を承知でお願いがあります」
「えっ?ロノウェ様のご希望でしたら、出来る限りは」
「では…かめのんを私に譲って欲しいのです」

その言葉には、流石の僕もビクッとなって、首をもたげてロノウェ様の顔を見上げた。
にこやかな微笑みは、姉さんが時折見せる怪しげな笑いと違って、裏表がない。

「で、でも。かめのん君がいないと…朱志香お嬢様も淋しがりますし、その」
「ぷっくっく。分かっておりますよ。単に、言ってみただけです」

ロノウェ様は、拳を唇にあてて笑っている。
冗談なのか本気なのか、ちっとも分からないまま、それで話はうやむやになってしまったけれど、…僕は。
もしもロノウェ様と過ごせるなら、こんな自分も変わっていけるんじゃないかって、そんな気がした。
こんな風に考えるようになったのだって、ロノウェ様がきっかけだから、きっと間違いなんかじゃない。
たぶん、きっと。

「もしよければ、また遊びに来てください」

ロノウェ様は姉さんではなく僕に向かって、やんわりと声をかけてくれた。
それが、あんまりにも素敵で……あぁ、僕は何て返せばいいんだろう。
違う違う、悩むより前に口を動かせ。
無口な僕の、たった一度の精一杯で。

「…また、…来ます」

その瞬間の、ロノウェ様のお顔ときたら!
まるでこれまでの微笑みが、10分の1も魅力を表してなかったんじゃないかというほどで、しかも白い手袋に包まれた手で、壊れものを扱うかのように僕の頭をやさしく撫でて下さった。
冷たく堅い甲羅越しなんかじゃなく、柔らかな帽子の近くに感じる、その手がとても嬉しかった。

「喋るなんて珍しいね」
「僕だって…」
「また、明日にでも遊びにいこっか」
「…………」

帰り道、姉さんは何の気なしに言ったんだろうけれど、その誘いを、僕は否定できないでいた。




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